前夫の自死に向き合う

わたしはあのとき

本当はなにを感じていたのかを

言葉にしていけたらと思い

書きはじめました。

 

出来事を直視して

言葉にしていけばしていくほど

長年かかえてきた心の緊張が

少しずつ

ゆるんでいくのを感じています。

 

私自身のことはオープンにしていますが

 

誰かを傷つけたり

個人や場所は特定されることのないように

表現には十分気をつけて書いていますので

安心して読んでいただけたらと思います。

 

はじめに

2010年

夫を自死で亡くしました。

31歳でした。

 

入籍を先に済ませ

挙式の日取りを考えたり

ウェディングドレスを試着したり

 

憧れていたことが叶いはじめた新婚生活は

わずか3ヵ月で

突然終わりがやってきて

一瞬で

絶望に覆われる生活に変わってしまいました。

 

どんなに願っても

もう二度と会えないのです。


痩せ細ったわたしをみて

周りは休むように言いましたが

初盆を終えると地元に戻り

アパートを借りて

再び看護師として働き始めました。

 

現実は

仕事をしないと収入がないわけで

卒業したばかりで貯金もなかった、それに

働くことで

生きる希望をみつけたいと思ったのです。

 

しかし

仕事で臨終に立ち会うと

毅然としていることができなくなってしまいました。

 

アパートの近くに線路があったので

通るたびに

ここで楽になれるのなら今すぐ

生きることを終わりにしたい

と思うこともありました。

 

暗い夜をひとりで過ごし、朝を迎える

たったそれだけでも

息ができなくなるほど辛いのです。


後を追わずに

ここまでよく生きていたと思います。

 

当時

周囲からの様々な励ましや

質問を受けているうちに

辛くなってしまったわたしは

身を守る(隠す)かのように

携帯番号を変え

引越し先も知らせず

人との繋がりを全て絶ってしまいました。

 

それでもまた再会できたお友達や

上司、先輩、同僚

新たな出会いもたくさんあり

やっぱり人との繋がりっていいなぁ

と感じています。

 

わたしの思い込み

私の母は

創価学会を信仰していて

熱心な活動はしていなかったのですが

信仰心を大切にしていました。

 

父は宗教には反対だったのですが

母は私が生まれるとすぐ私を入信させたので

私は自分の意思ではないところで

創価学会の会員になりました。

 

父と母は

信仰のことでよく口論をしていたので

夫婦は

「同じ信仰をしていないと喧嘩になるんだ」と

思うようになっていきました。

 

私は、母の価値観を無意識に受け継いで

信仰心を持って成長し

子どものころから

お祈りすることを大切にしていました。

 

現在信仰はしていないのですが

前夫も同じ信仰をしていて

 

結婚は、同じ思想の人同士でないと

  "父と母のように喧嘩をして

  夫婦不仲になってしまう"

と思っていたので

 

同じ思想を持つ前夫とご縁できたことは

とても安心できることでした。

 

初対面の日

前夫と初めて会ったのは、友人のお家でした。

 

わたしたちが初めて会う場所を

自宅でセッティングしてくれたのです。

 

私はいつも

話の輪に入るのが苦手で

周りの顔色を伺いながら

笑っても不自然にならなそうなタイミングで

笑ってみる

コミュニケーションが下手な自分が

大嫌いでした。

 

この日は

お昼近くになると

友人家族の計らいで

私たちは2人でランチに出かけました。

 

なにげなく携帯を見ると

「大丈夫?嫌じゃない?」

と友人からメールが入っていました。

 

友人家族はみんな

ちほちゃんは大丈夫か

ちほちゃんは嫌じゃないかと気になって

心配してくれていたのだと思います。

 

この日は

彼の車で近くの洋食屋さんに行き

私はオムライスを食べました。

そしてお付き合いすることになりました。

 

彼も遺族だった

 

「兄貴の年齢超えちった」

 

お付き合いをして

1ヶ月くらい経ったころ

彼は運転していた車を停車させて

運転席からぼそっとそう言いました。

 

このときはじめて

お兄さんがいたことを知りました。

 

「オレの兄貴、自分で死んじゃったんだよね」

 

そして私の言葉を待たずに

「この車で橋まで行って飛び降りた。

   飛び降りた場所にくつが置いてあった。

   遺書もなんにも残ってなくてさ。

   これ兄貴の車なんだ。

   乗ってんの気持ち悪い?」

 

硬い表情で

わたしと目を合わせず

頭にあることを一気に発したようでした。

 

「兄貴のところへ行きてーな」

彼は何度か私にそう呟きました。

 

そのあと言いかえるように

「兄貴の分も生きて会社を守る」

と言ってくれるのですが

言いかえた言葉に力はなく

 

共有する時間の中で

彼は生きることに寡欲だということを

随所に感じてしまう自分が怖くて

怖がっている自分にもふたをした。

彼は死なない、わたしの感覚がおかしいんだと。

 

亡くなった日

入籍から3ヶ月後。

 

朝は一緒に起きましたが

気付くと

家の中に彼の姿はありませんでした。

 

家を出る時は玄関で必ず

「行ってきます」

と私より先に出て

「行ってらっしゃい」

と見送ったあと

私が戸締りをして出勤する

というのがいつものやりとりだったのですが

この日はそれがなく

 

毎日大切に持っていく

私の手作り弁当も置いたままで

 

いつもとちがう雰囲気に

違和感を感じましたが

この違和感だけでは

死のうとしているなんて

想像できませんでした。

 

なにも言わずに

お弁当も持たずに出勤するなんて

めずらしいな‥と思いながら

私は病院に出勤し

病棟の業務がはじまりました。

 

申し送りが終わったナースステーションで

事務のかたに呼ばれました。

義父から外線が入っていると。

 

お父さんが病棟に電話してくるなんて

はじめてのことだったので

どうしたんだろうと思い電話に出ると

 

「息子が首を吊りましてね」

 

そう言われた瞬間

朝の違和感と繋がって

恐怖の穴に突き落とされたような気持ちになりました。

 

「お母さんがアパートに向かうから

 アパートに戻ってくれる?」

お義母さんと一緒に

搬送された病院に来てほしいとのことでした。

 

お父さんは冷静に話していたので

命は大丈夫なんだと

自分を少し落ち着かせることができ

病棟を出るために思考が動かせました。

 

もしこのとき

お父さんが取り乱していたら

私も病棟でどうなっていたかわかりません。

 

急いでアパートに向かうと

お母さんの車が見えました。

 

車に近づくと

錯乱状態でお経を唱えているお母さんの姿に

命は大丈夫…じゃないかもしれない

取り乱しているお母さんが

現実なのかもしれないと

一気に怖くなって体が硬直していきました。

 

「ちほちゃん運転して!私運転できない!」

お母さんはうろたえながらそう言いました。

 

私の運転で搬送先の病院に向かうと

お母さんの知り合いの職員さんが出て来て

中にいる彼の状態を教えてくれるかのように

ギュッと目を閉じて

首を横にふりました。

 

案内された救急室に入ると

ストレッチャーの上で人工呼吸器に繋がれた

朝まで生きていた夫が

無言で横たわっていました。

 

私が到着するとすぐ医師が来て

「奥さん?

   本人生きる気ないから

   蘇生続けても意味ないよ」

と言いました。

 

言葉は冷たくきこえますが

彼の状態をみれば

蘇生を続けても意味がない

その通りでした。

 

自営業の会社で

首を吊った状態になっているのを

出勤したスタッフが発見したとのことでした。

 

このときの私は

足がすくんで立っているのがやっとでした。

 

多くの人は

奥さんが何かしたんじゃない?

奥さんと何かあったんじゃない?

と、私に対して疑問を持つと思います。

 

私のせいで

彼は死を選んでしまったのだろうか。

わたしと結婚していなければ

死ななかったのかもしれない。

 

お兄さんも自殺していて、

弟も自殺となったら

みんな混乱するだろうという理由で

死因は脳出血と偽ることになりました。

 

 

書こうと思ったきっかけ

入籍からたった3ヶ月で

夫が自殺したときいたら

世の中の人はどんな反応をするのだろうかと

不安や

怖い気持ちがあるのですが

 

読者になってくださっている方のほとんどが

全く面識のない方々にも関わらず

リアクションをしてもらえることに

あたたかい優しさを感じています。

 

前夫の自死に向き合おうと思ったきっかけは

心のことを教えてくださる

優子先生のオンラインの講座で

個人コンサルを受けたときでした。

 

優子先生は

私が前夫を自死で亡くしていることは

ご存知でしたが

私がその出来事を思い出すことが怖く

これまで先生には

子育てや家族関係を相談していました。

 

そして、やっと

自分から

前夫のことを話しだすことができました。

 

優子先生は優しく寄り添ってくださり

終始泣きっぱなしの

個人コンサルとなりました。

 

「こんなに涙が出るということはね、」

という先生の言葉に

そんなに泣いてるかな…

と思ったら相当泣いたようで

パソコンの前も右も左もななめも

丸まったティッシュが山積みになっていました。

 

こんなに泣いてることにも気付けない

それくらい

自分の感情を抑えて生きてきたんだと知りました。

 

そして

「ちほちゃんがずっと学び続けてきたのは、

 ここが知りたかったんじゃない?」

との先生の言葉に


わたしは前夫の自死が今もずっと辛いんだ

それを自分で言い出せるようになるまで

先生はずっと待っていてくれたんだ

とハッとなりました。

 

彼の姿がなかったあの日の朝、

「もう出勤したの?」

「お弁当届けようか?」などと

電話かメールを打っていたら

生きることを選べたのではないか

私がちゃんと寄り添えてなかったんだと

自分を責めずにはいられないこと

 

自殺を脳出血だと偽って葬儀したこと

 

わたしの両親も現在の夫も

今でも病死だと思っていて

友達たちにもずっと嘘をついていること

かといって言い出すこともできないこと

 

私が喪主だったのですが

悲しそうじゃないと非難されたこと

周囲からいろんな質問をされたこと


そうゆう辛さを抱えながら再婚

出産、そして今に至り

異常な精神状態の自分にふたをして

何もなかったかのように演じて生きているんだ

やっぱりそうなんだと思いました。

 

そして優子先生に

「ちほちゃん、今、なに感じてる?」

ときかれて、なにか答えたと思いますが


「本当はなにを感じてるか

 ちゃんと感じてごらん」

と言われて


本当は何を…と思ったら

言葉も出ないほど涙が止まらなくなり

この悲しみが本当のわたしなんだ…

と思いました。

 

私が上辺で言ってるのか本心で言ってるのか

優子先生は口に出さないだけで

全部わかっているんだとも思いました。

 

ここまで寄り添えてもらえたのは

はじめてでした。

 

先生は

「何が嫌だったのか手帳に書いてみるといい。

 ブログに書いてもいい。

 ブログは自分が読むだけにして

 公開しなくてもいいんです」

と仰いました。

 

辛くなったら書くのを休んだり

公開するのをやめることもできる

そう思ったら

書きだすことができました。

 

書いていくことで

あのとき自分が嫌だったことを

丁寧に感じていけたらと思っています。

 

警察とのやりとり

死亡確認に立会うことは

仕事で度々経験していましたが

自分が遺族となって経験するのははじめてでした。

 

救急室のストレッチャーの上で

死亡確認が行われたあと

処置が終わるまで廊下で待つよう案内されて

救急室を出ると

 

いつの間に来ていたのか

廊下には警察官が数人いて

私を待っていたようでした。

 

そして

建物の裏側の駐車場に停まっていた

パトカーの後部座席に誘導されました。

 

運転席と助手席に乗っていた警察官が

後部座席に乗ったわたしに

「ご主人のもので間違いないですか?」と

夫のお財布と携帯電話を差し出しました。

 

受け取ったら

死んだと認めるような気がして

受け取ったら

もう二度と会えないような気がして

受け取るのが怖かった。

 

体が硬直している上に手まで震えてきてきて

「手が震えて…」

声にもならなかったと思うのですが

少しだけ開いたわたしの手の平に

警察の方が

お財布と携帯電話を

そっと乗せてくれました。

 

「このあと家の中を見せてください」

と言われて

アパートに向かいました。

 

警察=部屋の隅々まで確認したり

テレビで見たような

1とか2とか床に番号を置いたり

そんなことがはじまるのかなと

頭の片隅によぎった記憶もありますが

 

思考はほとんど回っておらず

言われたことに従うために

体を動かすのがやっとでした。

 

警察の方はリビングの真ん中あたりに立って

部屋全体を見回すと

来た目的はそれで完了したようでした。

 

さいごに

警官の1人が私に声をかけてくれました。

「あなたは生きるんだよ」

 

私は

頷くことしかできなかったと思いますが

唯一、支えにできた言葉でした。

 

ブログに書きはじめてみて

10年経つ今でも

こんなに鮮明に覚えているとは

自分でも驚きました。

 

この日の自分の服装まで

はっきりと覚えています。

 

書いていると、わたしは今

あの日のあの場所にいるのではないか

この現実の方が嘘なのではないかと

錯覚するほど

 

見えた光景、人の表情、話した内容

体のこわばった感覚までが

ありありと蘇ってきます。

 

とても怖いですが

それだけ強烈な体験だったのだと

書くことで少しずつ

出来事を客観視することができているような気がします。

 

母の絶叫

入籍してちょうど3ヶ月が経った朝

「おはよう」と一緒に起床してから数時間後に

わたしは未亡人になり

 

追い討ちをかけられるかのように、今度は

亡くなったことを連絡する

というタスクが訪れました。

 

脳出血で急死」と嘘のストーリーを話し

それを信じて言葉を失う人を目の当たりにするたびに

わたしは詐欺師にでもなったような

自分が自分ではなくなっていくような

 

もはや

人間ではなくなっていくような感覚に

おちいっていきました。

 

最もわたしを辛くさせたのは

母親の反応でした。

 

脳出血で急死したと伝えると

母は驚愕し

受話器の向こうで絶叫しつづけました。

 

あの理性を失ったような叫び声は

今でも耳に残っています。

 

「お母さん、大丈夫だからね。

   葬儀のことが決まったらまた連絡するからね」

と母を優しく励まし、電話を切りました。

 

子どもが悲しい状況に置かれたとき

母親が先に落ち込んでしまうと

子は母を心配したり寄り添う側になって

悲しみを見せられなくなって

余計辛くなるのだと知りました。

 

生き返るかもしれない

夫の遺体は

お父さんが手配してくれた

葬儀屋さんの車に乗って

病院から実家に向かうことになり

私が付き添って同乗しました。

 

遺体を固定するすぐ横にひとつ座席があって

そこに座り

20分くらい車にゆられました。

 

「これは現実なんだろうか」

「どうして

   こんなことが起こってしまったんだろうか」

と考えながら

 

外の景色を見るような気力はなく

座席シートの模様をぼーっと見ていました。

 

実家に着くと夫の遺体は

お母さんが敷いた布団へ運ばれました。

 

体の上には

こんなに必要なのかと思うほど

たくさんのドライアイスが乗せられて

 

その上に布団がかけられたので

体が2倍にふくらんだように見えました。

 

ドライアイスを体に乗せるなんて

生きている人にはしないことなので

やっぱり本当に死んでしまったんだと

 

生きている人にはしないようなことが目に入るたび

胸が苦しくなりました。

 

「こんなに冷やされて冷たいだろうなぁ。

   でも必要なんだって。頑張ってね」

と心の中で声をかけました。

 

葬儀屋さんは

枕飾り

(白い布がしかれた小台などの上に

 ろうそくや香炉などを置く)

を設置して帰りました。

 

お母さんがその小台に

ごはんにお箸を立てた、一膳飯を置きました。

 

お箸はご飯に立てているのに

わたしの胸に突き刺さってくるようで

一膳飯が視界に入ることでも辛くなり

直視できませんでした。 

 

夫の頬に

わたしのチークを少し

つけてあげました。

 

顔色が良くなり

生きているように見えました。

 

このまま待っていたら

生き返るんじゃないかと思いました。

 

お母さんも

「いい眉してるよね〜」

とうらやましそうに言いました。

 

お母さんも生きているのか死んでいるのか

混沌としているように見えました。

 

その日はたくさんの方が弔問に訪れました。

 

葬儀の前に

自宅にも足を運んでくださるということは

関係の深い方々なのだと理解できたものの

結婚式はまだ先の予定だったこともあり

わたしは面識のない方がほとんどでした。

 

訪れた方も弔問ではじめて妻(私)を知る、

という感じでした。

 

「あなたのせいだ」「あなたが悪い」

という態度で

わたしに辛く当たる方も

少なくありませんでした。

 

これが「投影」だと

のちに学ぶことになりますが

当時は崖から突き落とされるようなショックで

体が一気に虚脱していきました。

 

その方たちも辛い思いをかかえながら

ここに来ているのだろうと思い

わたしは丁寧に頭を下げ

帰りは姿が見えなくなるまで見送りました。

それが私にできる精一杯のことでした。

 

私は

周りの人の態度が辛いだなんて

言ってはいけないと思いましたし

打ち明けられた人も迷惑だろうな…

と思っていました。

 

この日は夫の隣に布団を敷いて

わたしも一緒に北枕で横になりました。

 

もしかしたら生き返るかもしれない

そう願って目を閉じましたが

 

一睡もできないまま

朝を迎え

 

昨日と変わらない姿に

本当に死んだんだ

未亡人になったのは現実なんだと

 

突き付けられるものが大き過ぎて

胸の苦しみはどんどん大きくなっていきました。

 

 

母が怖がった話

これから書く話を

何気なく母にしたときとても怖がって

「やめてよそんなおっかない話」と怒られたので

書いていいものか迷いましたが

当時わたしが直感で感じたことなので

書いてみます。

 

わたしは

「入籍したら礼服を買わなきゃ」

と思いました。

 

入籍したら近く不幸が起こる

それが誰なのかまではわかりませんでしたが

身内の誰かだと

そんな予感がしてなりませんでした。

 

休みの日に礼服を買いに行って

クローゼットにかけておきました。

 

友達にも

私「入籍したら礼服も買わないとだよね?」

友達「え〜?なんで礼服?」

私「必要になる気がするの」

こんな会話をしていました。

 

お通夜

喪主だった私は

右側親族席の角、喪主の席に座りました。

 

葬儀場のかたから

お焼香は

喪主の私が

最初にひとりで行うとの説明があり

 

「この合図で立つ、この合図でお辞儀」

 

式がはじまる前に

何度もわたしと練習をしてくだいました。

 

練習してもらったように

わたしはスタッフの方の合図で席を立ち

前に出ることができました。

 

最後列は見えないほど

たくさんの方が集まっていました。

 

このたくさんの方々、

わたしの家族、親戚、職場の同僚、上司

気心の知れた友達

 

そして昨夜私に辛く当たった方々も

こうしてかけつけてくれたことを思うと

わたしのせいで申し訳ありません

という気持ちでいっぱいになり

お辞儀で下げた頭は

なかなか上げることができませんでした。

 

わたしは何度も泣きそうになりましたが

一粒でも涙を流してしまったら止まらなくなり

立っていることもできなくなる気がして

必死に涙を我慢しました。

 

この、人前で涙を流さなかったことが

「奥さんは悲しんでいない」

と言われるきっかけになりました。

 

そう感じたのは一部の人かも知れないけど

私にとっては

世の中からそう言われているようでした。

 

世の中の人は

私が泣いている姿を想像し

想像と違うと非難して

想像通り私が泣いていたら承認するのかと

 

悲しみとも怒りとも言えない

何一つわかってもらえないという

孤独な気持ちになりました。

 

そして、人の心とはなんなのだろうと

今まで考えたこともなかったようなことに

疑問を抱くようになりました。

 

優子先生は

「本当はどうしてほしかった?」

と自分にきいてごらんと仰います。

 

本当はどうしてほしかったか…

と考えてみると

 

泣いたか泣いてないか

悲しんでいるか悲しんでいないか

ではなくて

 

普通の精神状態ではないのだということを

誰かにわかってほしかったです。

 

でも今は

普通の精神状態ではない自分を

誰かにわかってもらおうとするのではなくて

自分でわかってあげることが必要だったのだと

考えることができるようになりました。

 

 

見慣れた顔に安堵

看護学校卒業と同時に入籍

はじめての土地、新しい職場

苗字も変わったばかり

 

慣れない環境の中で

突然の夫の死。

 

お通夜に一番最初に来てくれたのは

職場の同期でした。

わたしは30歳の新卒でしたので

同期といっても歳は10歳近く離れていますが

彼女はお葬式に使われるフレーズは使わず

ふつうにいてくれたのが救いでした。

 

お通夜が終わったあと看護学校の友達が

わたしのそばにきて

一緒にいてくれました。

 

心配してくれているのが伝わってきて

切磋琢磨した見慣れた顔をみていたら

ほっとできました。

 

お通夜の日は

お父さんとお母さんと一緒に

そのまま葬儀場に宿泊しました。

 

わたしは夫が亡くなった日から

全く眠気が起こらず

一睡もできていませんでした。

 

何日も覚醒し続けていたことを思うと

心のダメージは

相当なものだったのだと思います。

 

出された食事も食べる気持ちには到底なれず

祭壇の前の棺のそばに椅子を置いて

目覚めることのない夫の顔をみながら

朝までずっとそこに座り

告別式を迎えました。

 

朝早く

着付けとヘアセットをしてくれる人がきて

お母さんと一緒に

準備された喪服を着て

髪をセットしてもらいました。

 

お父さんが手配してくれたようで

お金もかかったろうに

お父さんもお母さんも

一切わたしに請求しませんでした。

 

告別式には元職場の先輩や

友達がきてくれました。

結婚式に来てもらう予定が

告別式になってしまいました。

 

先輩は臨月だったので

来なくていいですと伝えましたが

「そんなの関係ない!」と言って

大きなお腹できてくれて

棺の中の夫にお花を添えてくれました。

 

お腹にいた赤ちゃんは2週間後に元気に生まれ

先輩似の美人なお姉さんになりました。

 

 

「人の不幸は蜜の味」という言葉

心を学べるような場所へ行ったこともありましたが

前夫のことは言い出せないことがほとんどで

解決しようとすること自体

不可能なのかもしれない

と思ってあきらめていました。

 

2020年

優子先生が講座を開かれることを知り

最後の望みをかけるように学び始めたのが

今も続けている心の学びのスタートです。

 

先生は

「何が嫌だった?」

「本当はどうしてほしかった?」

  • 自分に聞いてみること
  • 自分の感覚をちゃんと感じていくこと

このことが

とても大切なのだと仰います。

 

このように教えてくださる先生に出会えたのは

はじめてでした。

 

わたしの心の状態に合わせて

自分で向き合えるように伴走してもらえる

このような先生に

なかなか出会えないということは

理屈ではなく

肌でわかる感覚がありました。

 

「10年以上経つのに今でも嫌な気持ちが蘇り

 思い出すたびに深く傷つく辛辣な言葉がある」

と相談したとき

わたしが本音を言えないから

本音を言う人が出てくる

「投影」だと学びました。

 

当時、よくきかれて辛かった質問は

 

最後の会話はなんだったのか

亡くなる前の様子はどうだったのか

妊娠はしてないのか

何歳で亡くなったのか

誰が発見したのか

血圧はどれくらいだったのか

健康診断は受けていたのか

持病はあったのか

兄弟はいたのか

お兄さんは何で亡くなったのか

仕事はうまく行っていたのか

思い出は何か

 

このような質問を受けることは

息をすることさえ辛くなる時間でした。

 

「人の不幸は蜜の味」

という言葉を連想させるような反応が

夫の死に派生して起こった、

そんな感じがしてしまいました。

 

わたしが本音を言わないことで

本音を言う人が現れる投影。

 

わたしが本音を言うことができていたら

このような質問に苦しまなかったかもしれないし

見えてくる現実も

変わっていたかもしれません。

 

はじめてのメンタルクリニック

ご両親がお兄さんの時の経験から

葬儀後もしばらくの間は

弔問客が来るだろうと仰っていたので

わたしは朝起きると車で実家へ向かい

弔問客の対応をして

 

1日が終わると

Lサイズの額に入った遺影をもって

「アパートに帰ろうね」と

遺影に話しかけながら

静まり返った部屋に戻る

という生活を

初盆が終わるまで毎日繰り返していました。

 

はじめてひとりでアパートに帰った日

まだ現実を受け止められなかったわたしは

怖くてアパートの中に入れずにいました。

 

ちょうどそのとき

看護学校の友達が電話をくれました。

「今アパートに着いたんだけど、

 玄関開けるのが怖い。

 話しながらだったら中に入れる気がするから

 このまま切らないで話していてくれる?」

とお願いして

携帯電話から聴こえる彼女の声を頼りに

玄関をあけました。

 

彼女はこのことを覚えているかわからないけど

わたしは彼女がいなかったら

ひとりではアパートに入れませんでした。

 

弔問客には

わたしが妻であることを伝える度に

妻ですと言っても夫は生きてないんだ

なんて短い婚姻生活だったんだろうと

辛さが込みあげ

 

その辛さに追い討ちをかけるように

「あなたが奥さんなのね、

   亡くなる前は何か変わった様子はあったの?」

「普段の血圧はいくつだったの?」

 

死因が脳出血だと思っている人からは

血圧や普段の様子を質問されました。

 

夫の血圧を把握しているのが当然の前提で聞かれるのですが

わたしは自分の血圧でさえ

だいたいしかわかりません。

 

「そんなに高くなかったと思います…」

と答えると

「うちのパパ血圧高いから心配で。

   こんな突然亡くなるなんて怖くなっちゃって」 

 

突然の訃報に不安が募ってしまうのだろうけど

あなたのご主人は今、生きてる。

ご主人が生きているというだけで

うらやましいと思いました。

 

自死だと知っている人からは

遺書はあったのか

(アパートにはありませんでした)

最近変わった様子はなかったか

思い当たることはないのか

悩み事はあったのか

わたしとの関係はどうだったのか…

 

周囲は

死を選んだ理由をわたしに尋ねましたが

わかりません。

 

わたしだって知りたいです。

質問されるたび

責められているようにしか受け取ることができず

心臓のあたりを押し潰されるように

辛くなりました。

 

「見守ってくれてるよ」

よく言われたこの言葉も、わたしは嫌でした。

 

どこにも見えないし気配も感じない

見守ってくれるくらいなら

死なないでほしかった。

 

どんな言葉も辛くなるやりとりを

弔問客の数だけ

乗り越えなければなりませんでした。

 

勤務先の師長さんから

メンタルクリニックを受診するよう

すすめられました。

 

受診しても楽になれる気はしなかったので

いかないでいると

「あなたは今、ふつうの状態じゃないのよ」と

受診したかを確認する電話をくれるようになり

師長さんを安心させてあげたくて

近くのメンタルクリニックに足を運びました。

 

心の診療科にかかるのは、はじめてでした。

 

院内は静かな雰囲気で

待合室には

入れ墨の入った男性が座っていました。

 

入れ墨が入っていると無敵に見えるけど

悩みごともあるんだな…と思いました。

 

問診票の、今日はどうされましたか?の欄に

「先月夫を亡くしました」

と書きました。

 

診察室に入ると

医師は緊張した様子で

かける言葉が出てこず困っているように

見えてしまいました。

 

まれなケースだもんね

なんて言ったらいいか戸惑っちゃうよね

なんか余計辛くなっちゃったな

いかなくても良かったなと思いました。

 

処方された薬を飲んでみましたが

わたしは薬を飲んだのか?と思うほど

何も変わりませんでした。

今、同じ薬を飲んだら

眠くなったり

ぼーっとしたりするのかもしれませんが。

 

占いに行ったこともありました。

わたしは薬が飲みたいのではなくて

どうしてこんなことが起こったのかを

知りたかったのです。

 

幻想的な部屋で

あでやかな装飾品をつけた占い師が

自身がどんなことを占えるかわたしに説明して

わたしが話す番になったようだったので

「夫を亡くして…」

と言ったら

 

「えーーー?!

  いつ?なんで?病気?

  あなたまだ若いじゃない?お子さんは?」

 

ふつうのおばさんにしか見えなくなり

 

「すみません、やっぱり帰ります」

と言って幻想部屋を後にしました。

 

わたしの話をちゃんと聴いてくれる人って

いるのだろうか…

 

この頃から

今までとは違った視点で

人を見るようになっていきました。

 

紹介者となった友人もわたしを心配して

よい先生がいるからと、わたしを迎えにきて

2ヶ所目となる

心の診療科を案内してくれました。

 

この2ヶ所目の先生は

診察のはじめに

必ずわたしと一緒に

深呼吸をしてくれました。

 

薬を処方してもらうより

先生と一緒に深呼吸できることが心の支えとなり

わたしはそこから

先生のところへ通うようになりました。

 

もう何年も行っていませんが

わたしがここまで立ち直った姿を見たら

先生も喜ばれるだろうと思います。

 

海に行かない?

 

「明日、旦那と海に行くんだけど

 一緒に行かない?」

看護学校の友達が連絡をくれました。

 

この海のお誘いがとてもうれしかった。

 

日中は弔問客の対応

夜は真っ暗のアパートに帰ることの

くりかえしだったわたしは

海に行ってみたくなりました。

 

でも海に遊びに行くなんて

不謹慎な気がしたので

お父さんとお母さんには

「明日はお休みします」

とだけ伝えました。

 

お父さんもお母さんも

毎日わたしと一緒に過ごすうちに

娘のようにかわいがってくれるようになり

 

わたしの心労を心配していたので

海に行きたいといえば

快く送り出してくれたと思うのですが

 

周囲からは

「奥さんは海で遊んでいて悲しんでない」

などと

また

責められるのではないかと怖くなり

本当のことが言えませんでした。 

 

行き先は海だけど

少し自分を休ませてあげたいというのは

本当の気持ちでした。

 

昨日はブログの更新を休んで

娘と近所の子にミシンで

おそろいのシュシュや

ヘアバンドを作っていました。

 

ブログの更新を休んでみたら

そういえば実家に行くのを休んで

海に行ったことがあったなと

この出来事を思い出しました。

 

わたしは趣味でサーフィンをしていたので

海や波が大好きでした。

(泳げない初心者でしたが

  何時間でも海にういて波を待つチャレンジャーでした)

 

友達たちは

砂浜でぼーっとしているだけのわたしを

丸ごとあたたかく

受け入れてくれた感じがしました。

 

海から出てくると

 「何飲む?」「お腹空かない?」

と話しかけてくれて

また自由に海に入りにいく

わたしはそれを砂浜からぼーっとながめる

そんな距離感が心地よくて

 

誘いを断らず思い切って海にきてよかった

と思いました。

 

この友達たちは夫のことには一切触れず

わたしを夫を亡くした人としてではなく

ひとりの人として接してくれました。

 

このとき

こんな風に感じたということは

わたしはふつうに接してもらいたかった、

ふつうに優しくしてほしかったのだと思います。

 

この友達にはいつか

あの時海に連れ出してもらえたことが

すごくうれしかったと

改めて伝えたいと思っています。 

 

 

地元に帰る

四十九日にお兄さんと一緒のお墓へ納骨

それから間もなく初盆になりました。

 

初盆の片付けをしていると

お母さんから

「もう自由にしていいからね。

 ここにはもうこなくていい」

と話がありました。

お母さんは真剣でした。

 

夫を紹介してくれた友人や

ちょこちょこ電話をくれた師長さん

心療内科の先生からも

「慣れた土地で生活するほうがいい」

とすすめられました。

 

私が信頼できる方たちが声をそろえて

地元に帰るようにというならそうしようと

一生働こうと思って就職した病院を

3ヶ月で退職し

地元に帰ることにしました。

 

葬儀のあと

ひとりで過ごす夜があまりにも辛く

一度だけ実家に帰ったことがありました。

 

積極的に帰らなかったのは

実家は

針のむしろだろうと思ったからです。

 

私が帰ると

母は布団を敷いて寝込んでいました。

 

震えた声で

「あぁもうだめだ…」

と布団の中でうずくまっていて

 

「食欲がなくて食べられない」

「周りにどうゆう目で見られるか…」

などと言いながら

子どものように肩を震わせて

私の前でひっくひっくと泣きました。

 

「誰もお母さんを責めたりしないよ。

 今まで通り生きていて大丈夫だよ」

と励ましました。

 

母親がここまで落ち込む姿を見ることになるなら

帰るべきではなかったと思いました。

 

母がわたしの不幸を自身の不幸にして

力を落としているのも理解できたので

母のことは責めませんが

 

わたしは実家には住まずに

母親と距離をおいた方がお互いのためだと思い

アパートを探しはじめました。

 

いいなと思う物件が2件ありました。

1件目は家賃が予算内。

2件目は1件目より5,000円高かったけど

白いカベのかわいい内装にときめきました。

 

一生懸命働くし

節約もするからここに住みたいと

高い方に決めました。

 

通り慣れた道路、わたしが好きな近道

行きなれたスーパー、変わらない住宅街

 

見なれた光景が

「おかえり」と言ってくれているようで

 

30年住んだ場所は

こんなにも安心できるのかと

地元に帰ると決めたことは

正解だったと思いました。

 

母は徐々に元気を取り戻し

現在は孫と遊ぶことが大好きで

娘もおばあちゃんが大好きで

母に助けられることのほうが多くなり

とても頼れる存在です。

 

 

再就職

看護師の資格があったおかげで

幸い求人はすぐに見つかりました。

 

履歴書を見ながら師長さんが

准看護師のときはこんなに長く勤めたのに

 正看になって就職した病院は

 3ヶ月で辞めてしまったのはどうして?」

とわたしに優しくたずねました。

 

 「結婚して転居して就職したのですが

 夫が急死して…

 思い出の残る土地にいるのが辛くて

 地元に戻ってきました」

小さな声がどんどん小さくなっていくのが

自分でもわかりました。

 

わたしが「急死」という言葉を発した瞬間、

5人の面接担当者全員が一瞬

硬直したのを感じました。

 

師長さんはお花のようにやさしい方でした。

初出勤の日、そっと呼ばれて

「ここはね、おしゃべり好きな人が多いの。

 ご主人を亡くされているって知ったら

 みんなに根掘り葉掘り聞かれて辛くなると思う。

 だから、ただの独身てことにしましょう」

と言って

「なにかあればメールしてね」と

携帯のメールアドレスを交換してくれました。

 

そして高そうなピオーネをくれました。

 

面接の日に着ていた

7号サイズのスーツがブカブカ

ベルトをしてもウエストが落ちてしまい

見えない部分を洗濯バサミでとめていました。

 

それくらいやせ細っていたので

わたしになにか食べさてあげようと

おいしくて口当たりのよいピオーネを

買ってきてくれたのかもしれません。

 

ひとつぶ食べたらものすごくおいしくて

こんなにおいしいものを

ひとりで食べるのはもったいなくて

食欲がないと言っていた母にも

食べさせてあげようと

実家におすそわけしに行きました。

 

おいしく食べてもらえたかなと

翌日母に電話をすると

「そういえば食べたかな」

という反応で

ちょっとがっかりしてしまいました。

 

わたしは

父や母と「おいしいぶどうだったね」と

交わしたかったのです。

 

食べられない日が続いていたわたしにとっては

おいしいと感じられることが稀有だっただけに

「あんな反応ならひとりで食べればよかった」

と母に対して意地の悪いことを思ってしまいました。

 

わたしは看護師がやりたいというよりも

毎月安定した収入が必要でした。

 

35年で組んだ住宅ローンがあったからです。

 

看護師として働いていると

あの日を思い出す出来事に度々遭遇しました。

 

心肺蘇生や臨終に立ち会うこと、

なにかの数字が命日と同じ

というだけでも

窒息しているような苦しさに襲われました。

 

 泣きたい 息が苦しい   

いつもそんなことで頭がいっぱいでした。

 

母親軸から自分軸へ

わたしは

母親の笑顔がみたくて

  

着る服も、髪型も、夢も

すべて

母の望むとおりにし

こう質問されたらこう答えなさいと

母に言われたとおりの言葉を遣い

 

言われた通りにすると母は

ほんの少しだけど

笑顔になる気がしたので

 

いつしか、従順に生きることが

親孝行になるのだと思うようになりました。

 

そして自分の意思を持たなくすることで

大切な進路も

結婚相手までも

自分で決めることができなくなっていました。

 

今日は心の学びの講座の個人コンサルでした。

zoomで行われるのですが

わたしが心待ちにしている時間です。

 

優子先生は

「このブログに書いていることを

 誰かに話したことはありますか?」

とわたしに尋ねました。

 

ここまで自分の気持ちを言葉にしたのは

ここに書いたのが初めてで

全てを聴いてもらった経験はありません。

 

先生は、宗教の是非を論じることなく

わたしの歩んできた道のりは

立派だったと 

寄り添ってくれました。

 

わたしはやっと

自分軸で生きていけるようになった慶びを

感じています。

 

命日

命日と月命日は

これまでここに綴ってきた

辛い出来事が一気に蘇り

大きな波にのまれるような感覚に陥ります。

 

波にのまれたときのように

息ができない苦しさや恐怖の中で辛抱し

日付が翌日に変わるのをじっと待つ

重くて長い一日です。

 

命日と同じ時刻を表示した時計など

数字で目に入るだけでも

瞬時にあの日々に直結して

体が硬直し息ができなくなります。

 

いつ目にするか予測ができないので

回避することができず

 

気にしないようにするとか

考えないようにするということもできず

 

ただただ苦しむことしかできません。

 

他にも

住んでいた地名

「死」「自殺」「吊る」という響き

報道やドラマのお葬式の光景

垂れ下がった紐、お墓

人の寝顔、横たわる人体

見ると瞬時に苦しくなるものは

日常にたくさんあって

どこに地雷があるかわからない怖さのなかで

ずっと生きていました。

 

でも、こうして

書いて書いて

自分を客観視することで

 

どんなに苦しい出来事であっても

そこから抜けて

感情を一旦置くことができることに

書くことのすごさを体感しています。

 

これからは

怖いと感じている自分をダメだと思わず

「息ができないね、苦しいね。怖いね。

 あれほどのことがあったんだから当然だよ」

と自分に寄り添ってあげようと思います。

 

このような向き合い方ができるようになれたのは

優子先生に

怖いと感じているわたしに共感をしてもらい

寄り添ってもらうということを

繰り返し繰り返し経験させてもらえたことで

自分が自分に

そうしていけるようになってきたのだと思います。

 

生きて42歳を迎える

2021年4月

わたしは生きて42歳になりました。

 

書きはじめた頃は

思い出すだけで

あのときの悲しみと絶望に襲われ

泣きながら書いていました。

 

途中何度も心の限界を感じ

書くことを休もうとも思いました。

 

辛さがピークとなった日

優子先生が

「ブログ読んでます」と言ってくれたり

 

学びの仲間が

「次の更新待ってるよ」と言ってくれて

 

一切批評されることなく

寄り添ってもらえたことや

 

書くことで

感情から離れることができたことで

 

今日まで書き続けることができました。

 

出来事に対する捉えかたや

現実の捉えかたがどう変化したかを

講座の中で探究することもできました。

 

 

現在の夫と結婚する前に

結婚相手が未亡人って

嫌じゃないのかとたずねましたが

夫は全く気にならないようでした。

 

わたしが逆の立場だったら、気になります…

 

先日

「なんで訳ありなわたしと

   結婚しようと思ったの?」

と聞いてみたら

夫「?」 (何の話かわからない感じ)

 

私「前の旦那さん亡くなってるじゃん」

夫「あれ!そういえばそうだったね」 

 

夫は忘れていたようです。

 

「ご両親やきょうだいに言わないのはどうして?」

とたずねたら

わざわざ言うことではないと

言い切ってくれました。

 

わたしが深刻に捉えていることを

夫は深刻に捉えていない。

考え方の差異からぶつかることもありますが

このように

差異から学ぶこと

そして

救われることもあるんだと思いました。

 

自分の過去を言えずにいることに

ずっと罪悪感がつきまとっていましたが

自分を責めるのではなく

もっと自分に優しくしてあげようと思います。

 

Facebookに公開

大切に書いてきたブログを

Facebookで公開しました。


隠してきたことを晒すのは

勇気のいることでしたが

罪悪感を持ち続けるような生き方は

自分のために良くないと思ったのです。


それに娘が

わたしの姿を自身の母親像にするとしたら

罪悪感を持ってひっそり生きるお母さんより

辛いことに向き合ってでも

自分の幸せに貪欲に生きるお母さんでありたい

と思いました。

 


今日の午前中は

ライフカンタービレ講座の

グループコンサルがありました。


コンサルの中で私は

ブログをFacebookに公開したこと

何人かの方が

LINEやメッセンジャーで連絡をくれたこと

わたしと同じ経験をしている人が

他にもいると知ったこと

本心を綴った連絡をもらえたことが嬉しかったこと

アクセス数が一晩で800を超えたこと

などを話しました。


優子先生は
「アクセスしてもらえることや

 そのような連絡をもらえることが

 ちほちゃんの癒しになっているんですよ」

と仰っていました。


自分への癒しは自分でしかできない

その通りだと思います。

 

命日近づく

前夫の11回目の命日が近づき

体の緊張を感じています。

 

毎年命日が近づくと

波のような辛さが押し寄せてくるので

じっと耐えて日にちが経つのを待ち

なんでもないふりをしてやり過ごしてきました。

 

誰かと話したくて

携帯電話の連絡先や

LINEで繋がっている友達リストを

眺めたこともありますが

 

みんな忙しいだろうな

突然連絡したら

「何この人」って思われるかもしれない

そもそも

わたしが友達だと思っているだけかもしれない

などと思って

誰にも連絡ができませんでした。

 

自分以外の人は、順調でうまくいっている

そんな風にも見えていました。

 

このブログで

  • 前夫を亡くしていること
  • 自死だったこと
  • それをひた隠しに生きてきたこと

これらのことを開示したことで

わたしは今、苦しいと感じてるんだな…と

自分を客観視できるようになってきました。

 

水の中に潜り続けているような

息の吸えない感覚の中で迎えてきた命日は

息を吸って

もっとリラックスして迎えていいのだと

思えるようにもなってきました。

 

誰かに優しくしてほしいと思ったら

まずは自分で自分に優しくしてあげる

 

ぎゅっと抱きしめてほしいと思ったら

自分をぎゅっと抱きしめてあげる

 

周りにしてほしいことは

まず自分で自分にやってあげるといいって

優子先生が言ってた。

 

命日を穏やかに迎えられることを願って

自分を優しく抱きしめてあげようと思います。

(2021年6月)